昭和五十六年六月二十二日 朝の御理解
御理解第八十九節「此の方の道は傘一本で開く事が出来る」
この傘一本で開く事が出来ると、その傘一本をだから頂く為に信心を頂いとるというてもよいわけですよね。一切がこれ一本で開く事が出来るのです。傘一本で開く事が出来る。その傘一本を開く事の為に信心はしておる。
昨日一昨日でしたか日田の井手さん、熱心に参ってみえますが、今度なんか沖縄かなんかへ旅行、それも行きたくないけれども、どうしてもこう行かにゃならんような感じで、いろいろな不安もあるしと思うて参ってきておりましたら、ここへお参りする道中で道の最中に傘が一本落ちとったという。それを拾わせて頂いて、ああこれはおかげを受けてもよいなあと、心に決まったという訳ですね。傘のお知らせはそん時そん時であっても、やはり心配がある。心配いらんぞと神様が言うて下さっておるような感じが致します。が、いつも例えば、降る時だけではなくて、いつもその傘一本が心の中に頂けておるという事は、いつも安心しておられるという事なんです。
どんな場合であっても安心しておられる信心を頂く、そういう安心の大みかげの中には、それこそ傘下に集まるという程しのおかげが受けられるのです。一切がね、だから信心とは傘一本を頂く事。それは信心とは結局安心の心が頂けれる、その安心の心を目指させて頂く為には、どういう信心をさせて頂いたら、いつどんな場合であってもね、信心する者はこれから先どのような事が起こってきても驚いてはならぬと仰せられる。どんな事が起こってもそれはおかげを頂かれる力、おかげを頂かせて下さる事の為の前提である。修行であると思うたらお礼が言えれるところまでいかなきゃ。悲しい事だと思う事は、それこそ、夢にも思わないようなおかげの頂けれる修行であると分かったら、その事に対して悲しい事は悲しい事、痛い事は痛いけどもお礼が言えれる。ね、そのお礼が言えれる心が私は安心だと思う。
仏教でいう安心立命そういうものではない。それこそ、安心立命というならそれこそ、煩悩を絶っていわゆる、解脱のおかげを頂かねば安心立命などというのは、開く事は出来まいと思う。
だから、金光教の信心は煩悩をとるか、解脱とかというものではありません。人間が人間らしゅう生きながら傘一本が頂けれる喜びの道なんです。
昨日研修の時に、もう丁度お道の教師拝命してしばらく修行しとりましたけども、いろんな事情で宅の方に帰っておりました。日田の梅山さんという教師です。まあいろいろな事情がありまして、今度は親子三人で修行に二、三日前からまいっております。昨日、初めて研修に出てまいりまして、一年半というそのまあ空な時間があったですから、やっぱ信心のその何ていうか、現在の合楽の信心という事が分かっていないからだと、私は思ったんですけれども、昨日まとめてはおりませんけれども、今度修行に上がらせて頂きました私共夫婦の者の一つの覚悟といったようなものを、発表しますと発表しとりましたが、第一私はもう本気で信心修行に打ち込みます。為には先ずは煩悩を絶ちますと言うのです。まあそれと同じようなお話しをして居りましたから、お話しを終わった後に今のお話じゃないけれどもね、本当に煩悩が絶てるかしら、本当の解脱が出来るかしら、出けんのです。 私共は又そういう事が信心だというたら、もういよいよ助かりようはないです。
と、最近合楽で言われる、人間が人間らしゅう生きていくという事ね。だから、そういう事ではなくて、修行生としての一日のいうならば修行、合楽では別に難しい事を言う、火の行をせんならん、水の行をせんならんという事も言わない。ここは監獄とは違うから、もうここに、入ったが最後出られんというのでも無い。まあここでは、皆さんが出らんという事になっとります。けれども、用事があればだから自分の故郷である所の日田の方へも絶対帰りませんとこう言うから、そんな事があるものか、そりゃあまさかの何とか言う時にゃ帰らにゃ出けん。ね、ですからそういう事ではなくて、今合楽で言われとる人間が人間らしゅう生きながら、今日の御理解でいうと傘一本を目指して頂くのである。ね、その言うならば、手立てが合楽理念によって説かれる訳ですからね。それをやはり頂く事の為にです。言うならば、きちったした節度ある信心。
最近言われます、心行、信行、家業の行とね。日参教聽例えば合楽で言われるそういう事だけでも本気でそれを内容のある充実した取り組み方をさせて頂けばね、安心が生まれると。
昨日日曜で各地から支部の方達の団体参拝があって、お広前は賑わいましたが、昨日は朝の御祈念に竹内先生を先頭に伊万里支部の方達が、沢山参っておりました。帰られた後に聞いた事なんですけれども、沢山な葉書がねこう。それで竹内先生が朝参りをして来る信者さんに、こうして合楽の信心を伊万里支部でこうやって皆さんが頂いておかげを受けていかれるが、これを自分の信心の芯にしたい、家訓にしたい、家の紋ともしたいといったようなものを、書いて親先生に出しますから、書いてきなさいと言われたらしいですから、沢山書いて来た。もう本当にあのう素晴らしい。まあ毎日テープで御理解を頂く。それを又竹内先生がよくかみ砕いてお話しをして下さる。もう本当にいっちょいっちょ素晴らしいなあとまあ思うて、それを皆読んだら皆さんも本当に信心というものは有り難いもんだという事よりも、びっくりされるだろうと思うです。
短期間の間にもうすぐそこに焦点を置いての信心。ね、"喜妙朝礼"なんていうのがあります。これを家の家訓にしたい。兎に角一家中が朝早起きをする、朝参りをする、ね、これを私の家の家訓にしたい。素晴らしいでしょう。
これは昨日、福岡の稲員さんから電話がかかってきた。今朝方朝の御祈念をさせて頂いとりましたら生神金光大神というて頂いた。私もよう生神金光大神様と拝ませて頂いとったら、あのう親先生が御結界に奉仕されておられる姿を頂いた。そしてその御理解からあのう御結界から御理解を下さるのに、稲員さん私の言う事を遺言と思うて頂けよと言われた。日々の言うなら、合楽の御理解はもし皆さんがあれが親先生の遺言だとね、ひょっとすると明日から頂けないかも分からない。兎に角遺言として頂く。
昨日、私は忘れましたけれども、合楽の信心は一事でもそれを行じ抜かせて頂いておると、どんな場合であっても、心が安らぐというお届けがあったですけれど、ちょっと誰だったか忘れましたが、やはりそうなんです。それを頂いていく中にどんな場合であってもです、心に安らぎ、いわゆる、傘一本がだんだん出来よる訳です。頂く構えというものがです、本当に親先生のあれが遺言だというような構えで頂いたらね、それを大切にせねばおられない。そこから期せずして頂かれるのが、どんな場合であってもあわてんですむ、どんな場合であっても心が安らいでおるという事。ね、
難しい例えば、煩悩を絶つとか、解脱するとかといったような事に取り組むのではなくて、その日その日の御理解に取り組む事が楽しゅうなる、有り難いものになってくるという事。そこからそれに、いうならば、お返しを頂くように心がいつも安らいでおる、心が豊かに大きうなっていきよる。ね、それこそがいうなら、一本の傘がいよいよ本当なものになっていってる証拠ですから、その安心を頂きたい、一本の傘を頂きたいというのではなくて、いかに教えをです、これだけは、自分の命、いや命以上といわれる、思われるような信心を内容に頂いて、そして日々の御理解をまああれは、親先生の遺言だというふうな構えで頂き、一本の傘をいよいよ立派な、弱々しいものではない、雨が風が降ってもそれに堪えられるような、いうなら傘一本にしていく精進。此の方の道は傘一本で開かれる道と仰せられる。その傘一本を頂く為に、だから信心をしておる為というてもよいのです。「真の信心とは安心のおかげを受ける事であります」と、これは三代金光様からおしらせを頂いた、これは御教えです。傘一本、いわゆる信心とは安心のおかげを頂く、受ける事であります。なら、その安心を受ける事の為には私共が日々教えを受けて行じるという事。すらが難しい事ではなくて、合楽では煩悩を絶てとも解脱のおかげを頂けともいうのではない。人間が人間らしゅうというて、はめをはずすとかでたらめという生き方ではない。自分がこうと決めた事、ね、例えばこの修行生の方達がその日一日の修行というものが、それがきちっと出けていくというだけの事。お互いの生活の中に教えが生き生と生きずいておる生き方をね、身につけていく中に、願わんでも頂けるのが心の安らぎであり、そして傘一本であり、その傘一本が開く事も出来るだけではなくて、この世で有り難い道を開くだけではなくて、その傘一本をあの世にも持って行きたい。どうぞ。